そうだな

   ああ、人生とはかくも残酷で、かくも儚いものであった。

   と、最初の一文だけ書いて、その先が全く思い付かなくなってしまった。締め切りは今日の夜までだ。このままでは非常にまずい。今までにももう何度も担当が家を訪ねてきており、その度に原稿を寄越せと催促されている。今まではどうにかこうにか、今はまだ渡せぬ、今とてもいいアイディアを新しく思いついて、次の話に使いたいのだが纏めるのに時間がかかる、もう少し待ってくれ、などと言って何とか追い払ってきたのだが、それも今日までだ。今日を過ぎればもう時間切れ。私の文が乗るはずだった頁にはどこの馬の骨とも知れぬ何某かの文が代わりに載ることになり、そのうえ原稿料の支払いも無いときた。それだけは非常にまずい。さて、それではいよいよ書かねばなるまいと観念して机に向かったはいいが、最初の一文で早くも躓いてしまい、筆が止まってしまった。
   大見得切って「いいアイディアを思い付いた」などと言ったが、実際にはアイディアなど何一つないのだ。全て大嘘である。頭には何も浮かんでなどいない。そもそも、私には書きたいことなんて何もないのだ。正確に言えば、そんなものはとうの昔に無くなってしまった。世の中を変えるようなメッセージを世間に叩きつけたいわけでもなし、崇高な思想や確固たる信念などがあるわけでもなし。「人生とはかくも残酷でうんたらかんたら」などと、分かるような分からないような文章を無理矢理捻り出して、文化人ぶってあちこちで偉そうに踏ん反り返り講釈を垂れているような輩の欲求を満たし、雀の涙ほどの金を貰い日々の飯を食い繋いでいるだけの、そういう人間なのである。昔はその事でひどく悩んだものだが、今となっては最早どうでもよい。人は誰しもが、生きるために仕事をせねばならぬ。背広を着て電車に乗り、行きたくもない会社へ行き、したくもない仕事をする連中と同じだ。これが私の仕事なのだ。好きとか嫌いとか、やりたいやりたくないの問題ではない。しないと生きてゆけないのならば、やるしかない。私にとってはそれが、たまたま「これ」だっただけだ。
   たまに、私の書いた文にわざわざ感想を寄越す律儀な人間もいる。私のこの毒にも薬にもならない駄文を有り難がって、感謝の言葉などが書いてあったりした時には、僅かに残った良心が少しだけ痛む。きっとこの方は純粋なのだろう、私と違って。私にはもう魅力を感じられなくなってしまった様々なことも、この方にとっては未だに宝物のように輝いていて、自分が読むひとつひとつの物語を本当に大切にしているのだろう。私にとって時にはがらくたのようにも見えてしまうそれらを大事そうに抱えている姿を思い浮かべると、切ないような、後ろめたいような、懐かしいような感じがして、胸を締め付けられる。私にだってあったはずなのだ、文字を書くということにもっともっと純粋に向き合えていた時が。しかし私は、いつからか文字に期待するのをやめてしまった。期待してもいつも辛いことばかりだった。真実を書くのだ、真実を伝えるのだと思い情熱を注げば注ぐほど、そうは思っていない周囲の人間との間に軋轢が生じていった。「一番好きな事を仕事にしては駄目、二番目に好きな事を仕事にしなさい」と昔誰かに言われた気がするが、それは正しかったのだと後になって痛感した。つまり私は純粋というより、ただの馬鹿だったのである。
   生まれて初めて自分の書いたものが人に認められた時、これでやっと私も世の中に物申すことができるのだ、私の思想は間違っていなかったのだ、と一人で祝杯をあげたものであった。褒められて嬉しかったことは今でも覚えている。しかし実際にこの仕事を始めるまでは、仕事として文字を書くのがこんなにも苦痛を伴うものだとは、本当に思っていなかった。何を書いても周りは首を縦に振ってはくれぬ。一体何の為に自分はこんなことを続けているのだと毎日考えながら、誰が書いても変わらぬような文章を書き、世の中や、大切な人達や、かつて自分が真実を伝えたいと思った人々にではなく、ただただ周りの人間から駄目を出されないように、顔色を伺いながらものを書くようになってしまった。
   たまに会う友人から「お前は好きな事を仕事にできて羨ましいよ」などと言われる時がある。きっと他意は無いのだろう。本当にそう思って言っているのだろう。だけれども、その一言を聞く度に腸が煮えくり返る思いがした。顔では笑いながら、心の中で友人を激しく罵倒した。そう思うのならお前もそうすればいいだろう。私にいくら仕事の愚痴を言えども、お前は明日になればまたその会社に顔を出すんじゃないか。自分からそこを飛び出す覚悟もないくせに、本心ではずっとぬるま湯に浸かっていたいくせに、一丁前に社会に文句を言って、責任をかぶることも無く安全な場所から好き放題言いやがって。私がどれだけ苦悩しながら暮らしているか、お前に分かってたまるか。お前の生活が今のようになったのは、社会の所為でも環境の所為でも学校の所為でも親の所為でもなく、自分の所為じゃないか。お前はそうやって、誰かから与えられた居場所にずっと文句を言い続けて暮らせばいい。私はお前とは違う。

   いよいよもって何も考えられなくなり、とうとう家から出て、街へふらりと出て来てしまった。こんな時には店で一杯ひっかけて、酔った頭で考えるほうが良いものが浮かぶ時もある。何より、これ以上あの狭い部屋にいると気が狂ってしまいそうだ。
   日没直前の街をふらふらと歩く。空はいよいよオレンジ色から濃い群青色へと変わろうとしていて、街は未だ沢山の人間達で溢れていた。仕事が終わって帰路に着く者、夜遊びの待ち合わせをしている者、今まさに昼と夜との境目にあるこの街には、今日もあらゆる人間達がそれぞれの人生を抱えて暮らしている。
   背広を着た頭髪の薄い男が、猫背でとろとろ歩く自分を邪魔そうに舌打ちしながら追い抜いてゆく。学生服を着た男女が、何がそんなに楽しいのか、けたたましい笑い声を上げながら自分の横を通り過ぎてゆく。転んで泣いている子供をあやす母親。バスを静かに待つ老婆。飲食店の店先で声を上げチラシを配る青年。寄る場所の目星も付けず外を歩き続け、様々な人達と擦れ違ううち、外に出たことで幾分上向いた心が、また少しずつ落ちてゆくのを感じた。そして段々と申し訳ないような気持ちになって、ついには涙が込み上げてきて、その場に立ち尽くしてしまった。
   ああ。私は一体、何をしているのだ。望んでいたはずの自分の仕事すら満足に遂行できずに、義務を放棄し飲酒に逃げ、また金の為に毒にも薬にもならない話を書いて人々を騙すのだろうか。いかにも含蓄のありそうな言葉を羅列して、それを有り難がる人間から金を取り、そうして巻き上げた金で飲む酒のなんとまずいことか。友人よ、いつか君を心の中で罵倒したことを許して欲しい。いま私は、君の人生こそが正しいように思える。生きる為に働き、金を貰い、多くは望まず、些細な幸せを噛み締めて暮らしてゆく。それすら出来ない私のような人間に、君を罵倒する資格など無かった。狂っていたのは君ではなく私だったのだ。みじめな人生は私のほうだ。それでも、今まで何とか生きてこれたものだから、私はどこかで自分の生き方が正しいと勘違いしてしまったのだ。こんな私にだって一丁前に生きる権利くらいあると、どこかで思ってしまったのだ。

   もう死のう、と思った。

   気が付くと、どこかの橋の上まで来ていた。下には線路があり、不規則な間隔で電車が走り抜けてゆく。どうやってここまで来たのか、よく覚えていない。知らないうちにここまで辿り着いて、じっと下の線路を見つめていた。自分がいつからそうしていたのかも良く分からない。幸か不幸か、自分の他には誰一人ここを通らなかったらしい。誰かが通っていたら、間違いなく怪しまれただろうから。
   そのまましばらくはずっと同じ姿勢のまま、ひたすら下を通る電車を凝視していたのだが、ふと、あることに気が付いた。
   視界の端に誰かがいる。
   あまりにも下を凝視するあまり全く気が付いていなかった。この橋の上で、自分と同じように立ち止まって動かない誰かが、もう一人いた。いつからそこにいたのだろうか。少なくとも、自分がこの橋に来た時にはいなかったのではないか。いや、どうやって来たのかも分からないのだから、自分の記憶など怪しいものだが。とにかく誰かいる。
   なるべく気付かれないように、恐る恐る視線をそちらに向ける。その誰かは、やはり自分と同じように橋の上から下を覗き込んでいた。そして彼方もどうやら、私がここにいることを気にも留めていなようだった。そして横顔まで見えたところで、私は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
   例の友人だった。
   しばらくは驚きと焦りで声も出せず、ただ呆然と友人を見つめていたのだが、そのうちに友人もこちらの視線に気付き、顔を上げ、やはり私と同じように心底驚いた顔をした。お互いに、思っていることはきっと同じだったろう。なぜお前がこんなところに。
   気まずさから、私は思わず話しかけた。
   「やあ。まさかこんな所で会うなんて、とんでもない偶然じゃないか」
   「全くそうだな。君はこんな所で何を?」
   「いやなに、ちょっと次の話を書くのに行き詰まってしまってね。夜風にでも当たれば何かひらめくかと思ったのさ」
   「なんだ、またいつものやつか。まったく、気楽なもんだな」友人は笑った。
   「本当に君が羨ましいよ。俺は今の仕事がなかなか上手く行かなくてな、それで…」

羨ましい。今の私を見て、まだそんな事を言うのか。こんなにもみじめで、人並みの事すら満足に出来ず、迷惑をかけ続けて、自分を卑下し、劣等感に苛まれて、ただ周りのお情けで何とか生きているだけの、今だって死のうとしてここに立っている私を。
   こいつはやはり、何も分かっていない。そう思うと、我慢ができなかった。
   ついに、言わずにいたことを言ってしまった。
「いい加減にしろ。俺のことが本当に羨ましいなら、お前もそうすればいいだろう。いくら愚痴を言おうが、どうせお前は明日になればまたその会社に顔を出すんじゃないか。自分からそこを飛び出す覚悟もないくせに、本心ではずっとぬるま湯に浸かって楽していたいくせに、一丁前に社会に文句を言って、責任をかぶることも無く安全な場所から好き放題言いやがって。俺がどれだけ苦悩しながら暮らしているか、お前のような奴に分かってたまるか。お前の生活が今のようになったのは、社会の所為でも環境の所為でも学校の所為でも親の所為でもなく、自分の所為じゃないか。お前はそうやって、誰かから与えられた居場所にずっと文句を言い続けて暮らせばいい。私はお前とは違うんだ」

   友人は、しばらく呆然とこちらを見ていた。
   そして、友人が口を開いた。

   「そうだな」

   そのまま、友人は橋から飛び降りた。