旅芸人のC

   あるところに、若い芸者がおりました。
   暑い日も寒い日も、いつも全身を布で覆っていて、なんだか薄気味悪い芸者でしたが、芸が面白いと評判でした。
   一年中フードとバンダナで顔を隠しておりましたので、芸者の顔をはっきりと見た人は、誰もおりません。

   芸者が本当は何という名前なのか、どこから来たのか、誰も知りませんでした。そもそも、芸者も自分の名前を知りません。物心付いてからしばらくした頃、この芸者の母親は、自分の娘を置いてある日突然姿を消したのでした。何度目かの新しい男が子供の事をたいそう煙たがり、八つ当たりのように毎晩乱暴するので、最後には「ごめんなさい」と書いた紙切れ一枚を残して、夜が明ける前に男と共に家からいなくなりました。自分自身の幸せの為に娘を捨てたのです。その後母親がどうなったのかも、それで本当に幸せになれたのかどうかも分かりませんが、とにかくそうだったのです。
   母親は娘が生まれてからも、ついに一度も名前を呼びませんでした。ですので、芸者は母親から自分の名前を聞いた事がありませんでした。
   最初の父親は、娘が生まれてすぐに賭け事でお金を使い果たし首を吊りました。すると、母親はすぐに新しい男を家に連れてくるようになりました。最後に来た男は確か三人目か四人目くらいだったはずです。皆働きもせず遊び歩くような男ばかりで、家には一年中お金がなく、娘はまだ働くには幼過ぎたので、少しずつ家の中で厄介者になっていきました。
   娘は二人目の男の事が特に嫌いでした。母親がお酒を買いに家を出た少しの間に、手足を掴まれて乱暴されそうになった事があったからです。無理矢理服を剥ぎ取られたところで母親が家に戻り、男は慌てて手を離しましたが、母親は娘を一瞥すると、床に落ちていた服を娘に投げつけ、早く着なさい、とだけ言いました。そんな事があってから、二人目の男が家に来ている時はいつも顔を合わせないように下を向いて、話しかけられても返事をせずに黙っていました。二人目の男とまた二人きりになったらと思うと、男から逃げたくて仕方ありませんでした。その態度が男の癪に障ったのか、男が酔っ払っている時や機嫌の悪い時などには、特にひどく顔や身体をぶたれたりしました。それを見ても、母親は何も言いませんでした。
   当然読み書きも教わっておりませんでしたから、娘は紙に書かれた「ごめんなさい」という字がどういう意味なのか、分かりませんでした。目が覚めてから、誰もいない家の中でずっと母親の帰りを待っていた娘は、待てど暮らせど誰も家に戻って来ないので、寂しさと不安で夜が明けるまで泣いて、疲れ果ててまた眠って、起きて、母親を捜しに外へ出て、そうして三日三晩当てもなく歩いた後、とうとう動けなくなって倒れてしまいました。そのまま野垂れ死にするのを待つだけであったところを、偶然通りかかった、夜盗と大して変わらぬような薄汚れた芸人一座に拾われ、なんとか生き長らえたのです。
   そんなわけで、芸者は今でも自分の名前を知りません。
(しかし、これでは随分と話しづらいので、お話をする間だけ、適当に名前を付けておきましょう。「C」とでもしておきましょうか。「A」ではあまりにひねりがなさ過ぎるし、じゃあ「B」で、というのもなんだか安直ですしね)

   芸人の一座に拾われてからしばらくして、Cの身体に奇妙な事が起こるようになりました。
   近くにいる誰かがCの事を強く考えていると、それだけで身体のどこか一部が焼きごてを押し付けられたように熱くなり、そのまま火傷のようなみみず腫れになって、痛みと共に身体に現れるのです。まるで身体が誰かの考えを読み取っているかのように。それはもしかしたら警告だったのかも知れませんし、反抗だったのかも知れませんし、あるいはもっと霊的な何かだったのかも知れませんが、Cには分かりませんでした。
   拾われて命だけは助かったのですが、それからというもの、Cは奴隷のように沢山の仕事を押し付けられました。きつい力仕事もたくさん命じられ、へまをやらかすと容赦なく殴られます。命だけは失わずに済んだけれど、生活はますます辛く厳しいものになりました。そして、そうやって人から強い感情を向けられる度に、例の火傷のような腫れで苦しみ、のたうち回ったのです。いっその事、その部分だけ肉をえぐり取ってしまいたくなるくらい、腫れは熱く、痛いものでした。でも、そんな姿を見せたらまた煙たがられ殴られるので、一座の皆の前では精一杯我慢をして、夜に皆が寝静まったのを見計らって、水辺で傷を洗いながら静かに泣きました。Cにとっては、他人からの、自分に向けられるあらゆる気持ちがとても恐ろしく思えたのでした。
   もしかしたら、いま家に帰れば、母親が戻っていて…などと考えたりもしました。そんな考えが浮かぶ時は寂しさと不安で狂いそうになるのですが、一座に連れられるままに、どこかも分からないような遠くまで来てしまっていたので、いま逃げ出したところで、どちらへ行けば家に帰れるのかも分かりません。この地獄のような日々から逃げ出したいのは山々でしたが、たった一人で何かが出来るとも思えません。そして結局は、抜け出した事に気付かれぬようこっそりと一座の元へ戻り、眠るのです。
   Cは今まで、母親やその他の人たちを恨んだ事はありませんでした。もしここに善良な人が現れて「君の人生は間違っている!」なんて言われたところで、Cにはそれが分かりません。だって、Cの人生はこれが全てだから。自分と同じくらいの歳の子たちが普通はどういう夢を見て、どんな事を考えて生きているか、それが分からないのです。ただ、何もない空しい気持ちと、死にたくないという気持ちと、母親への寂しさがあるだけでした。

   Cはやがて、誰からも何とも思われない人間になりたいと、そう思うようになりました。

   命じられた仕事を過不足なくただ黙々とこなし、嫌われるでもなく好かれるでもなく、波風を立てず、最低限生きていけるだけのものを貰って、それ以上は望まず、与えもせず、必要以上に関わらず、突然いなくなっても誰も気が付かないような、そんな人間になりたいと思いました。
   それからCは、何年も何年も、ただただひたすらに命じられた仕事を黙々とこなし続けました。殴られ蹴られ罵倒され、その度に奇妙な火傷が出て狂いそうなほど苦しみ、それでもひたすらに淡々と、奴隷である事を続けました。街から街へ渡り歩いては一座の面々が芸を披露し、雀の涙ほどのお金を頂戴して次の街へ向かいます。街の人達には媚びた笑顔でへこへこと頭を下げるくせに、街を出た途端に、やれ飯がまずかっただの、やれ不細工な女ばかりだっただの、一座の面々は思いつく限りの悪態をつくのです。Cはそれを、感情の読み取れない目でずっとずっと見ていました。

   だんだんと殴られる事も罵られる事も減り、数え切れないほどの昼と夜がただ黙々と過ぎて行きました。気が付けばCは、もう小さな子供ではなくなっていました。いまや一座の誰一人として、Cの働きを疑いはしません。芸人一座は相変わらず貧乏で、食事も寝床も粗末なものでしたが、一座に関わるそれら全ての事はCにはどうでもいい事でした。ふと気が付くと、Cは自分が望んだような人間になっていたのでした。
   そしてある日、Cは、皆に隠れてずっと練習してきた事を、今日実行しようと思い立ちました。
   なぜ今日だと思ったのかは分かりません。今日ならやれるような気がしたとしか言えません。準備だけはずっと前からしてきました。いつか来るその時のために。

   芸の披露が終わり街を出ると、その夜に一座は必ず道中で酒盛りを始めます。その酒を用意するのもCの仕事の一つでした。ですので、酒の中に眠り薬を混ぜるのはあっけないくらい簡単でした。あとはいつも通り、杯を配り、酒を注ぎます。酒盛りが始まってからしばらくすると、一座の面々は一人残らず深い眠りに落ちてしまいました。
   さあ、今こそ練習の成果を見せる時です。
   最初の一人を誰にするかも、Cはもう決めてありました。無能で一番下っ端のくせに、さらに下であるCをさんざん殴り飛ばした男です。

   座長の腰に下がっている短剣を、起こさないようにそっと引き抜いて、Cは下っ端の男の側に片膝をついて立ち、片方の手で男の口を押さえ、なんのためらいもなく、男の腹に短剣を思い切り突き立てました。
   何度も何度も何度も何度も突き立てました。
   眠っていた男は目を見開き、塞がれた口の中で呻き声を上げました。その瞬間、Cの身体にいくつものみみず腫れが浮き上がり、激痛が走りました。
   まるで溶けた鉄を身体に浴びているような痛みと熱に、一瞬気を失いそうになりながら、それでもCは男を刺し続けました。
   やがて男が動かなくなると、Cはふらふらと立ち上がり、一座の全員を一人残らず同じように刺していきました。
   Cの身体の腫れはすでに全身に現れ、身体を少し動かしただけで激痛で気が遠くなるほどでしたが、構わずCは最後の一人の元へ向かいました。
   最後は座長です。
   Cの身体のうちで、腫れが及んでいないのはもはや顔の左半分だけでした。
   Cはもう、死んでも構わないと思っていました。
   最後の一振りが、座長の心臓に突き刺さりました。

   不思議なことに、もう、それ以上腫れが襲ってくる事はありませんでした。
   全てが終わった後、Cは爛れていない顔の左半分を撫で、また、静かに泣きました。

   その後もずっと、Cがたった一人で旅芸人を続けている事は、芸人一座の皆は、誰も知りません。