障害物

   はい、そうです、はい。間違いありません、お騒がせしてしまって、すみませんでした。

   …どちらが先に、ですか?ちょっとよく分からないけれど、たぶん、僕のほうだと思います。あまり細かい事はちょっと、僕も頭に血が上ってしまって、その、なんというか、周りが見えなくなってしまって。ご迷惑をおかけして申し訳ない。…いえ、でもそこまで強くやったつもりは。僕だって、こうして多少はやられているわけですし、確かに今思えばちょっと度が過ぎるような部分はあったと思うけれど、それでも僕だけが責められるのはちょっと…いえね、悪いとは思っているんですよ、それはもちろん思っていますけれど、そもそもどうしてこんな状況になったのか、目の前の現象や行為だけを見て判断しないで、ここに至った経緯のほうを、皆さんもう少し落ち着いて考えてくれてもいいんじゃないのかな。僕だってもう良い年した大人ですよ。大した理由もなく、癇癪を起こした子供みたいな真似、するわけないじゃないですか。

   僕が彼女と初めて出会ったのは、いつだろう、もう何年前だったかな。その時には僕も彼女も、お互い「ああ、人がいるな」くらいにしか思ってなかったと思います。

   毎日毎日顔を合わせて言葉を交わす人ならともかく、道ですれ違った他人とか、テレビに映ってる誰だか分からない人とか、何とかっていう国の誰々さんとか、そういうのって確かに同じ人間ではあるけれど、僕が生きている範囲内の世界と具体的な接点がない以上、他人って結局その辺の電柱とか、木とかと一緒で、要するにただの障害物と変わらないなぁって時々思うんです。こんな事言うとすぐ「なんてことを言うんだ」って怒られるんだけれど、皆だってどこかでそう思ってるはずなんだ。道を歩く時に、進路上に誰かがいれば避けて通るし、いなければそのまま進むだけでしょう?見知らぬ人にいちいち話しかけたりなんて誰もしないし、昨日すれ違った人達の事を、いちいち全部覚えてなんかいないでしょう?つまり関係ないんだ、自分の世界には。少なくとも、僕等は関係ないと思って毎日を生きている。

   全ては繋がってるんだとか、因果応報とか、風が吹けば桶屋が儲かるとか、僕は基本的にはそういうものも信じてますけど、普段の生活の中で飛び交ってるそれらの言葉って、とても都合の良い便利な言葉だなぁと思ってるんです。例えば、なんだろう、手を取り合って皆で一緒にとか、一致団結とか、プレイ・フォー・何某とか。要は祭り好きなんですよ、良くも悪くも。例えばサッカーなんかがそうで、日本代表が強豪国と試合する時には皆一生懸命応援するくせに、聞いたこともないような国と親善試合だとか、Jリーグだとかになると、国民の熱狂はどこへやら、本当に好きな人たち以外ほとんど興味を示さない。結局はそういう事なんですよ。サッカーだろうが、ストライキだろうが、ミュージシャンのライブだろうが、皆で騒いでわいわいやれれば何だって良いんだ、中身なんか。

   すみません、随分話が逸れちゃいましたね。僕の悪い癖です。どうも話してるうちにアレもコレもと欲張っちゃっていけない。自分の考えてる事を出来る限り正確に相手に分かって貰いたくて…例えば、論文を書く時に難しい言葉を使わなくちゃいけなくて、使う言葉の意味を辞書で調べて、すると、その単語の説明文の中にまた分からない言葉があって、それをまた調べて、っていう風に辿って辿って、それでやっと自分の書きたい文章を正しく書けるようになるような、そういうものと同じように考えてるのかも知れませんね。人との会話もどんどん掘り下げて横道に逸れていってしまうんだ。今までにこれで何度も人からうんざりされたんですよ、お前の話はいつも長過ぎる上に途中から何の話か分からなくなるって。

   で、何の話でしたっけ?あ、そうそう、彼女の事でしたね。それはもう、とても好きでしたよ。好きでした。彼女は僕にとって紛れもなく、その辺の電柱とか木とかじゃない、血の通った人間でした。彼女も僕をそう思ってくれていたんじゃないかな。いつからそう思うようになったのかは、ちょっと分からないけれど。白や黒や灰色で描かれたモノトーンの絵をずっと見つめていて、そうしてふと気が付くと、いつからかたった一つのものにだけ色がついて見えるようになって、それ以外は相変わらず灰色なんだけれど、そのたった一つのものだけは、日が経つごとにどんどん色が足されて鮮やかになっていって、それを見ていると、なんだか自分自身まで色鮮やかになったような気持ちになって…そんな感覚って言ったらいいのかな。とにかく、僕は彼女を好きになって、彼女は僕を好きになった。言ってしまえば、事実としてはそれだけです。といっても心の中の事だから、その感情が何かはっきりとした物質や現象になったわけでもないし、それを事実と呼んでいいのかどうかは分からないけれど。

   これも僕のあまり良くないところで、とても神経質で完璧主義者なところがあって。あ、いやね、男なら誰でも、相手にとって理想のパートナーでありたいって少しは考えるものだと思うんですよ。僕の場合はそれが少し過剰というか、なんというか。例えばどこかに遊びに行くにしても、何をするにしても、そこで少しでも上手くいかない事があったり、相手の前で何かみっともない事をやらかしたり、つまり完璧でなくなってしまった時、ものすごくがっかりして、もういっそ最初に家を出る瞬間まで戻ってもう一度やり直したい衝動に駆られて、なんというか、自分の中で気持ちが急激に冷めてしまうんです。自分でも驚くくらいに。自分で自分が許せなくなって、とにかくもう帰りたくなって、一人になって、何が駄目だったのか、どうすれば良かったのか検証して、仕切り直したくなるんですよ。「ちょっと今日のはナシで、なんだか上手くいかなかったからまた今度」って。それは全てにおいてそうで、仕事だって家事だって全部そうで、とにかく一つの傷も汚れもない、完璧で真っ白でぴかぴかなものでなくてはならない、と思ってしまうんです。だから、それが叶わないと分かった瞬間、がっかりして、全て壊してゼロからまたやり直したくなってしまう。オール・オア・ナッシングというやつでしょうか。

   もしかしたら、知らないうちにそれが彼女の首を絞めていて、彼女を精神的に窒息させていたのかも知れませんね。そうなのかも知れません。ただ、僕だって悪気があってやっていたわけじゃないし、こればかりはもうしょうがないんだ。

   そのうちに、彼女がなんだかんだと理由をつけて僕に会うのを避けるようになってきたんです。いや、その時は「避けられている気がする」というくらいの感覚的なもので、実際には本当に忙しかっただけなのかも知れない。でもそういうものって、言葉の端々や態度でなんとなく分かるような時もあるじゃないですか。ずっと一緒にいる人ならなおさら。そして、その辺りからかな。自分もなんというか、感情の制御がきかなくなるような時があって。ただ会って話をしているだけだったのに、妙に苛ついてしょうがないような時があったり、本当にそんなつもりはなかったのだけど、気が付いたら相手を口汚い言葉で罵倒していたり、かと思えば涙を流して謝ったり。僕はたぶん神経質で完璧主義者で、さらに付け加えると、とにかく自分というものに自信がないんだ。彼女は僕にとってずっと変わらず、色鮮やかなままだった。それを見ているうちにだんだん、彼女と同じように色鮮やかでいられない自分に気が付いて、嫉妬のような、恐怖のような、とにかく自分の見たくない部分を見せつけられているような気がして、落ち着いていられなかったんです。

   そして、なんというか、言いにくいんですけれど、彼女がアレしてるところを見てしまって。その、誰だか知らない他の男と、歩いていて、いや見かけたのは偶然なんです、でもなんだか胸騒ぎがして、そうしたら、その、ラブホテルに入っていって、ラブホテルはお茶や食事をする為に入るような場所ではないし、ああこれはたぶんそういう事なんだろうなと思って、目の前が真っ白なのか真っ暗なのか、とにかくそんな風になって、僕は彼女に電話をするくらいの事しかできなくて、何度かけても彼女は電話には出なくって、だから彼女がそこを出てくるまで待って、そうしたら彼女が出てきて、男と別れたところまでは見ていて、そのあとはもう、なんというか頭に血が上っていて。

   目の前が真っ白になった後で、裏切られた、という言葉が真っ先に頭に浮かびました。だってひどいじゃないですか。僕は自分に出来る限りの努力をして、完璧であろうとしたし、理想であろうとしてきたのに。重大な裏切りですよ。僕の気持ちを踏みにじったんだ。絶対に許されない事です。世の中にはこんな鬼畜が確かに存在していて、僕はその鬼畜と数年を共に過ごしていたのに、その本性がこんな鬼畜外道である事に気が付かなかったなんて。考えただけで恐ろしい。僕のこの数年間は一体なんだったんでしょうか。まるで長い長い夢から、たった今醒めたかのようです。それが悪夢だったのか、それとも今が悪夢なのか、それは僕には分かりませんが。

   結果的に僕は確かに彼女を殺してしまったけれど、いえね、悪いとは思っているんですよ、それはもちろん思っていますけれど、そもそもどうしてこんな状況になったのか、目の前の現象や行為だけを見て判断しないで、ここに至った経緯のほうを、もう少し落ち着いて考えてくれてもいいんじゃないのかな。僕だってもう良い年した大人ですよ。大した理由もなく、癇癪を起こした子供みたいな真似、するわけないじゃないですか。石ころが邪魔だったらどけるし、木が邪魔だったら切り倒すでしょう?僕はただ、障害物を取り除いただけですよ。

   だから、僕だけを責めるのは、やめてもらえませんか。